ゴールデンウィークの入口は畑仕事で。名古屋の『ココロ』の皆さんが扉を開けてくださいました。震災以降あたたかい日が少なくて、桜チラホラ、カラマツは新芽の兆しも見えません。こんなに茶色っぽいGWは初めてかもしれない。
苗の植え付けは(霜のおそれがあって)まだ早いですがジャガイモの種はもういいでしょう。
肥料や灰を散布した後、耕耘機の響きにつれて黒く美しい土があらわれてくる様子は、力ずくで春を呼びこむ作業のように思えました。
下の画像は当日(29日)正午頃の玄関付近。一昨日の午後から足場を組んで2階部分の外壁を張りかえました。段取り良く進んで足場をバラす寸前です。「今日のお客さんも2時間前までこうなっていたとは気がつくめえ」と思ったら、地味な場所のせいか帰るまでだれにも気付いてもらえずガックリ。
花見日和が続いていますが薪小屋作りの毎日です。ひと区切りつけたところで気分転換したくなり3時過ぎ、冬眠していたバイクを目覚めさせて中山道望月宿に向かいました。行きがけのすずらん峠の下りの画像です。毎日Tシャツ(長袖)1枚でも汗が出ていたのに、この辺りはダウンジャケットでも寒い!スキー場も一面の雪のままでした。雲が出て風も吹き始めて里の景色も茶色っぽくて、信州の春はしばらくおあずけです。
下校の中学生だけがすれ違う望月宿を歩いて、茂田井宿、芦田宿、笠取峠から白樺湖とひと回り。次に走る時は絶対「お日さまの出ている時にしよう」と思いました。
薪小屋を作ろうとしています。一昨日基礎工事を終えて、土台や柱の加工に入りました。寒くもなく暑くもなく日を浴びて、良く研いだカンナと新しい刃のノコギリだけ使って、これは完全に遊びですね。親しい大工さんが「俺の仕事は刃物の『切れ味』を楽しむことだでネ」と言っていたっけ。しかし、材木がストックしてあった廃材利用のため、細かな調整が厄介です。プロはこんなもの使いません。
私がノミを当ててゲンノウで「かんかん」と叩き始めると庭の隅の方からも「こんこん」と音がする。毎回のことなので不審に思って忍び足で近づいてみたら、カラマツにかけた巣箱の中をゴジュウカラがつつく音でした。縄張りを主張しているのかも知れませんが、ぶーこと共に、とりあえず仲間です。
ウォールデンの庭では日陰の雪がようやく消えましたが、まだ一面の枯葉です。「里におりたら花が咲いているかもしれない」。
国道20号を東に行くほどにずんずん季節が進んで行きます。山梨県に入ったら桜がほぼ満開でした。大武川の橋を渡って右に入り実相寺でどっぷりと花見をしました。信州の桜は「白銀のアルプスとセット」がお約束ですが、ここは背後に鳳凰三山が控えます。画面の中央より右側に日本最古とうたわれる『神代桜』(で検索するといっぱい出てきますからそちらでご覧ください)も頑張って花を咲かせていました。戦国最強の武田軍団の中でもひときわ勇名を馳せた『武川(むかわ)衆』も春が来るたび眺めていたんでしょうねえ。
大地震から一ヶ月が経ちました。あの日、地盤の良い蓼科でも長い揺れが続いて不安に襲われました。テレビをつけると震源は東北地方太平洋沖、私は思わず「津波来るぞ!逃げろ逃げろ!」と画面に向かって叫んでいました。
何年か前『三陸海岸大津波』という本(吉村昭著)を読んで地震の後に訪れる様子がかなりはっきり予想されたのです。近代だけでも明治29年(死者26360人)、昭和8年(同2965人)、昭和35年(同105人)に来襲。本は当時の資料や経験者からの聞き書きや子供たちの作文など、生々しい証言を集めて書かれていて恐ろしく、津波に追われる気分で一気に読みました。「いつかまた、必ず来るぞ・・」と戦慄を覚えたものです。
先の津波の被災後、高台に移り住んだ住民も年月とともに暮らし易い平地に還るのは自然の成り行きでしょうか、たぶん私もそうするかもしれません。でも、病院や学校、役場などまでが津波の可能性のあるところに建っていたことには疑問が残ります。テレビで解説者が「人智を超えた災害」と何度も言っていたけど、薄い一冊の文庫本にすら『人智』が満載のように思えるんだけどなあ・・・
あまりの大災害の報に身も心もすくんでしまいました。新社会人になる娘の引越作業はしたものの、歌も忘れたような3週間。お客さんは1人もありませんでした。「前を向いて行こう」。快晴の今日、自分の元気を呼び戻すためにスキーに行きました。「この季節、俺にはこれしかない」。八子ヶ峯の稜線を歩いて広い雪原から樹林を滑り降りました。震災以降、3月としてはずーっと寒い日が続いてかつてない根雪の量です。美しく大きな風景と滑降の緊張感で体中に力がよみがえりました。新年度の今日、希望を胸に『新規蒔き直し』です。